日本の競馬を変えた男
1986年アーサー・ハンコックの牧場で1頭の仔馬が生まれた。彼は
8ヶ月のとき激しい下痢に見舞われ、生死をさまよい、生産者には、
毛嫌いされ、売られるが、安いため、買い戻しを入れたアーサー
ハンコックに、生産者は、無理やり押し付ける形で、所有者が変
わった。2歳時のせりでは常に売れ残り、帰りには、運転手の心臓
発作で車は横転大破。それでも生き残り、アーサー・ハンコック
の元に戻ってきた。ハンコックは彼の半分の権利と引き換えに、調教
をアメリカ有数の調教師チャーリー・ウィッティンガムにゆだねた。
サンデーサイレンスと名づけられたその仔馬に調教が行われた。しかし
それは困難を極めた。その調教を担当した、パム・メープスは、
「何しろ、すき放題に暴れまくって、私が指示することはことごとく
行わないわけ」といっていた。それでも、ウィッティンガムは
我慢強く、彼女に調教をさせた。彼女を抜きに、サンデーサレンス
の成功を語ることはできない。サンデーが死んだとき「会いに行って
あげればよかった」と残念がっていた。
徐々にではあるが、彼女の調教を受け入れていった。何とか、デビュー
にこぎつけたウィッティンガムは、騎手を、アメリカトップの
シューメーカーに頼もうとしたが、はじめて調教にまたがったとき、
「あらん限り悪行をつくしていたわね」とメープスが言うほどひど
かったらしい。仕方なく、腕は確かだが、薬物に手を出し何度も処分を
受けていたパトリック・ヴァレンズエラを選んだ。だが、この人選は、
間違いではなかった。馬があるとはよく言ったものである。
デビューして、アメリカの3冠のうち2冠をとる名馬になる。だが、
引退後、種付けをしようという人間はほとんどいなかった。そのとき、
以前からサンデーがほしくてほしくてたまらなく、ハンコックを口説いて
口説いて、現役中に、権利だけでもと、やっと権利の1/4を買っていた
吉田善哉が、ここぞとばかり、すべての権利を買い取ったのである。
合計1100万ドルでの購入であった。そして、日本につれてくるのである。
そのとき、アメリカの専門家たちは、「日本のブリーダーが莫大な金を
積んで、とても成功しそうにない母系から生まれたヘイロー産駒を買って
いった」といった。そのころ、日本では、来る前から大フィーバーが起こって
いた。現役の2冠馬が来るのである。すぐに、シンジケートの株はすぐに
満口になっていた。そして、彼の産駒は日本の重賞をことごとく取っていく
のである。サンデーが成功したとき、「誰が、サンデーを日本なんかに
売ったんだ」とアメリカの関係者が言った。以前、サンデーを駄馬と言って
いた人たちが・・・・。その仔が走る姿を、吉田善哉は見ることがなかった。
デビューの1年前に他界してしまったのである。アーサー・ハンコックは
意識をしていなかったが、日本の競馬を変える人間になった。