2008年6月30日月曜日

日本の競馬界を変えた男(小さな成功)

馬の話からちょっとそれて、人を紹介しよう
パートナーのキャンベルが言った。
「あの牝馬が優勝した瞬間に競馬場で味わった快感に勝る美酒など、
この世にあるわけはないじゃないか」アーサー・ハンコックはグラス
を置いた。ケンタッキーオークスを、グッバイヘイローが制したとき
の話である。アーサー・ハンコックは2代にわたるアメリカのトップ
ブリーダーであった祖父・父の大牧場を長男として継ぐつもりであっ
たが、父の亡き後、管財人たちが弟を後継者に押し、彼は、勝手に
しろと、自分から飛び出すことになった。そして、彼は、隣の土地を
買い、苦労しながら、借金を抱え、土地だけは拡張していった。2代
に渡る念願のケンタッキーダービーも生まれ育った牧場に一歩先んじて
制覇した。ついに、父の牧場の広さをしのいだが、借金はかさんでいっ
た。そんなとき、救世主のように現れたのが名牝グッバイヘイローで
あった。彼女は1989年シーズン終了後24戦11勝で競争生活を終えた。
獲得賞金は170万ドルを超えた。1990年1月キーンランドのセリで
協和牧場オーナー・浅川吉男氏により210万ドル(約3億円)で落札
された。これで、ハンコックは一息入れることができたのである。
日本へ輸入が決まった時、名門競馬雑誌が去りゆく名牝に対して
「サヨナラ・グッバイヘイロー」という特集記事を組んで、別れを
惜しんだ。そして、アメリカ中の競馬ファンが涙したと言う。
その産駆キングヘイローが重賞を勝ったとき、すぐさまアメリカに
打電された。アメリカは、彼女のことをどんな小さなことでも知り
たがったのである。その遺伝子は、確実に日本で受け継がれている。
だが、アーサー・ハンコックが、日本を変えたのは、この馬では
なかった。また、彼の人生の最高潮はまだ先にあったのである。

2008年6月21日土曜日

史上最高の牝馬

史上最高の牝馬と言うと、あなたはどの馬を想像しますか。
クリフジ、トウメイ、テスコビガー、メジロラモーヌ、ベガ、
ヒシアマゾン、メジロドーベル、スイープトウショウ、ウォッカ、
ダイワスカーレット
人それぞれ、思い入れがあり、好みが違うので、多くの名前が挙がるで
あろう。だが、次の馬が、女傑ということに意義を唱える人はいないで
あろう。さらに、この血統が超一流であることを否定することはできない
であろう。
 彼女は、母に続いてオークスを勝ち、生んだ仔はエリザベス女王杯を
2回勝つ。姉カーリーエンジェルはエガオヲミセテ、オレハマッテルゼ
を出している。現在、その子供たちは数億円の値段がつく。
 1996年、オークス馬としてぶっつけ本番で臨んだ秋華賞、結果は
10着。レース後、骨折が判明。長期休養、手術後の復帰戦マーメードS
を完勝。そして、GⅡに格上げされた札幌記念に出走を決めたとき、
北海道のファンが歓喜し、牡馬相手のGⅡにもかかわらず、1番人気に
押した。これも完勝した。順調と思われたが、秋の天皇賞では、左奥の
永久歯が虫歯になり、飼い葉をかまずに食べていたという。完調でもない
にもかかわらず、最強牡馬たちを一蹴した。その中にはバブルガムフェロー、
マヤノトップガン、マーベラスサンデー、サクラローレル、そして、3歳
のサイレンススズカがいた。続く、ジャパンカップでは、日本馬最先着の
2着。勝った馬はピルサドスキー。武豊が『現役日本最強馬』と彼女を
称した。有馬記念では、皮膚炎を起こしながらも3着に踏ん張る。翌年も、
現役を続けたが、GⅠでは、宝塚記念3着、エリザベス女王杯3着、と
振るわなかった。牝馬で牡馬混合の3着なら大えばりだが、彼女には不足
であった。ジャパンカップで、エルコンドルパサーの2着にはいり好走
したが、有馬記念では、落鉄のため5着に敗れる。だが、それまでの
栄光は色あせるものではなかった。
 繁殖に上がって、アドマイヤグルーヴを出すなど、繁殖牝馬としても
一流の結果を出してる。
彼女、エアグルーヴは、怪我や病気とも戦いながら、牡馬に混じって
結果を出してきた。現在、最高の繁殖牝馬として、社台グループに
大切に繋養されている。

2008年6月19日木曜日

日本競馬史上最高の名脇役サッシュチビ その1

(1)引退レース
2001年12月16日エクラールが直線で後続を突き放す。
武豊は、ゴーサインを出した。ゴールまで200mのとき、
チビは大きく右に傾いた。まだエクラールまで5馬身離れている。
左にもたれる癖があるチビが、騎手が考えていることと逆の反応
を示した。今まで一度もなかったのに。武騎手は、後日、振り返
って言った『ジョッキーの心理を想像してみてください。あんな
場面になっても彼を右から叩くにはなれないんです。』そして、
『最後まで、わけがわからなかった。まさか、右にもたれるとは。
もう、これで引退だから、もう、これ以上考えなくていいんだ』
同じことを、当時、チビの調教助手であった池江泰寿師が言っていた。
直線、何とか工夫して体制を建て直し、再び、追撃体制に入ったチビ、
ゴールはせっまっており、差は開いた。もうだめかとみなが思った。
次の瞬間、彼は、一瞬飛んだように見えた。伸びた。信じられない
光景が、スタンドの人々の目に飛び込んできた。スローモーション
でも見るように、一完歩、一完歩、差が詰まる。ゴール直前に、
ドバイの王族ゴドルフィン氏(現首相)の持ち馬エクラールを捕まえ、
ゴールに飛び込んだ。一瞬置いて、シャンティ競馬場のスタンドに
大歓声が沸き起こった。
50戦目の引退レース、彼は、香港で初のGⅠを勝ち取り、自らを祝った。
彼とは、中国名『黄金旅程』、ことステイゴールドのことである。
  生涯成績は  50戦7勝2着12回、3着、8回、
  重賞成績は、 4-7-8、GⅠ優勝1回
重賞優勝の中には、ドバイシーマクラッシックが含まれる。当時はGⅡ
であったが、現在はGⅠである。重賞成績の中で、GⅠの成績を見ると
なんと、天皇賞秋2着2回、有馬記念3着、天皇賞春2着、4着、5着、
宝塚記念2着、3着、4着2回、と常に、掲示板に載るほど活躍しているが、
日本で勝った重賞は、6歳時の目黒記念と7歳時の日経新春杯だけである。
常に善戦して、レースを盛り上げるが、決して主役にはならなかった馬。
誰もが、彼を愛し、応援していた。目黒記念を勝ったとき、スタンドは、
誰もが涙を流した。GⅠ優勝のような騒ぎであった。
 引退後、社台グループは、彼を、岡田氏率いるマイネル軍団の
ビッグレッドファームに譲った。サンデーサイレンス産駒が増えたため、
血の集中を防ぐためである。代表産駒として、ドリームジャーニー、
ソリッドプラチナムなどがいる。